コミュニケーションの有無が問われている。
それを察した上で、学生諸氏はしたり顔で「コミュニケーションには自信があります」とか「コミュニケーション力が優れています」とくる。
「それは、あなたが決めることではないでしょう」、と思ったり、「へえ~、本当にそんな能力、もっているの?」とハラの中で疑ってみたりする。
周囲にいる他者は、そんな印象をもってしまうのだが、当事者にはそのハラの中が見えない。しっかりと指摘でもしないと、わからないらしい。
彼らの念頭には、たくさんの友人に囲まれ、その輪の中心で快活に話す自分自身の姿があるようだ。どうやら、企業が考えるコミュニケーション(能力)との間に大きな齟齬(そご)が生じているようだ。
企業側は、入社して関わる機会の多い年長者とのコミュニケーションを想定している。よって、学生時代に友だち相手に円滑なコミュニケーションをとっていた、ということは、あまり重視はされないだろう。
私の友人で、ある上場企業の営業部長がいる。彼が休日にたまたま出勤すると、ある男性新入社員も出勤だった。上司として当然のように、昼食に誘い、御馳走でもしてやろうか、と思った。
年齢的には、新人類世代(一九五四~六八生)と新人類ジュニア世代(一九八四~九二生)ということになる二人。
かしこまった挨拶もなく、食後に「どうも」と言って謝意を述べた新入社員。食事中も上司である友人が気を遣い、たいへん疲れたそうだ。
「もう、彼を誘うことはないだろう…」としみじみと語っていた。
ソトで人の話を真摯に聴き、その話をウチで家族の誰か説明する。他者との会話の中で何かを学ぶ機会を意識して創出する。
何でもない、当たり前の営為が、〝いざという時〟に効いてくる。普段の生活からコミュニケーションについて考えてみるところから、社会(社会人)への扉が開かれる。