「就活」個人塾~生き方・働き方講座~

弊社は、就職に必要な知識と知恵を養うための「“就活”個人塾」を開講しています。
“就活”という壁を乗り超え、社会で勇躍出来る人財となる皆さんを全力で支えます。

私たちと一緒に人生の岐路に立ち向かいましょう。

ここでは、いくつかのテーマの説明をしています。就職の“キモ”を短くまとめてみました。
より深く、より詳しく知りたい方は当社にご連絡の上、何なりとご相談ください。

【1】現象と本質~継続にカギがある~

 世の中にはさまざまな現象がころがっています。この現象、表層部分を理解することは、さして難しいことではありません。例えば、カルビーは原宿にファーストフード「カルビープラス」を開店しました(2011年)。この事実は、目と耳からわかり易く私たちに届く現象の一つといえるでしょう。

では、この現象の背景は何だろうか。その背景を追いながら見えてくるものが本質ではないでしょか。ではその本質を追究する際、大切なことは何でしょうか。その1つに継続して物事の動向見つめる、という点を挙げることができます。同社のファーストフード進出への淵源に「超高齢社会」の克服がありました。この淵源にたどり着くカギが継続にあるといえます。次に、その継続の例を挙げます。

カルビーが「超高齢社会」と向き合わざるを得なくなった時期は、2000年を過ぎた頃といわれています。北海道の契約農家の高齢化によりからジャガイモを仕入れることが難しくなったという時期がこの頃です。その調達をどうするか。そこでタッグを組むことになったのがアメリカの食品大手ペプシコです。国内市場だけで十分な利潤を得ていたカルビーにとって、そのパートナーがアメリカ企業だったこともあり、大きな転換を迫られることになります。まず、それまで未上場だった企業が上場します。アンテナショップとしてファーストフードに挑戦する。国際企業として外国人を積極的に採用する…。

それまで、優良企業カルビーにとって、株主から資金を集める必要はありませんでした。しかし、外国企業と組み海外へ進出することがテーマとなった以上、資金の調達は不可避となりました。因みに海外へのファーストフード1号店はサンフランシスコ(2012年)でした。国際進出は加速度的に進み、また、多くの外国人が経営に参画しています。

高齢化という、先進国共通のテーマを前にして、国内市場で大きな利潤を生んできたお菓子メーカーがグローバリゼーションに舵を切りました。社会の変化に見事に適応した事例として銘記する必要がありそうです。この現象から、皆さんは何を本質と捉えますか。現象に本質はつきものです。本質を常に探す「習慣」、とても大切だと思います。

【2】説明と記述~“学び”と“気づき”の発見~

 何気なく使っているこの2つの言葉、「説明」と「記述」。「就活」に向けて、その違いを正しく理解する必要があります。では、どのようなことを「記述」し、何を「説明」しなければならないのか、具体的な例を通して考えてみましょう。

まず、「記述」から。ここに一枚の履歴書があります。書くべき情報の中には、「すでにあること(もの)」として記入するだけでよい項目があります。このことは「記述」をすればよいことです。氏名、生年月日、住所、電話番号、学歴、資格、免許については、それを記入すればすみます。ここでいう「記述」とは、このような情報をさします。書き加えるべき「何か」を有しない事項です。静的な情報ともいえます。これらの情報は伝えるだけで、受け手はそのことが理解できます。

それに対して、「説明」が求められるのは以下のような問いです。性格、趣味、得意な科目、志望動機など履歴書の中に登場する質問事項やエントリーシートでよく問われる自己PRや「あなたがこれまでに特に力を注いで取り組んできたこと」や「最近、印象に残っていることは何ですか」などです。この「説明」について、考えてみましょう。
例えば、「趣味」について問われたとしましょう。「映画鑑賞」とある人は答えました。ここまでは「記述」です。次に、「邦画が好きですが、特にアニメーションは面白いので必ず観ます」と言ったとします。これで「説明」になったでしょうか。これでもまだ、「説明」になったとは言えません。「説明」にするためには、その人なりの“学び”や“気づき”を伝える必要があります。それでは、一つの例を挙げてみましょう。

「私はいつもアメリカ映画を観ると、アメリカ国民の楽天的な性格に感心します。それは、ハッピーエンドという結末を用意するシナリオから容易に推測することができます。映画は、その国の人たちの“メッセージ”であり、“国民性”を表象するものではないかと考えます。そのメッセージから何を読み解くか。これからも、まだ行ったことも、会ったこともない異国の人たちがつくった映画を通して、彼らを理解していきたいと思います。」

この文章から、映画を通して異文化や外国人に対する理解を深める姿勢が伝わるのではないかと思います。さまざまな事象に触れ、※1刹那(せつな)の“気づき”や“学び”が脳裡を過ぎります。その記憶を記録として書き留めておく習慣こそが、「説明」克服のための※2里程標になると思います。

※1 きわめて短い時間。瞬間。  ※2 物事の推移・発展の一過程

【3】本音と建前~本音で済ませたいところ、だけど…~

 「就活」は建前づくりです。本音で済ますことはできません。本音にもいろいろあります。公務員を受験した際の面接で、「公務員は仕事が楽で、つぶれることがないし、安定しているから志望しました」という本音もあれば、「私はあなたのことが好きではありませんが、今日は一緒にお酒を飲んで、楽しみましょう」というような本音もあるかもしれません。次に、これは本音ということでしょうか。「私は小学生の頃は学級委員、中学では野球部の主将を務めました。協調性と責任感は私の持ち味です。これからも持ち前のリーダーシップを発揮し、御社に貢献したいと思います」。これを自分の口から語るのはやや※1僭越なのでは…。責任感や協調性がその当人にとって持ち味がどうかを決めるのは、その当人の周りにいる他者であるはずです。自らそれを言うのは、おかしな話かもしれません。その意味では、この本音もいただけません。

 そう考えると、建前づくりは意外と難しいことかもしれません。また、社会性が問われるとも言えそうです。日常生活で建前をつくる機会、そう多くはないと思います。他者を意識するか否かに社会性の有無が帰結しているといえそうです。日常における他者との対人関係が、就活という非日常に活きてくる、ともいえそうです。試合中、部活動の顧問に「今日の調子はどうだ?」と問われて、「普通」と答えたとします。また、「最近、バラエティ番組が多いが、どう思う?」と会社の上司に問われ、「別に」と答える。前者は「いつもと変わらない体調です」ということだろうし、後者は「別に、良くも悪くも思いません」ということでしょう。ただ、これでは、その先に話が進まず、会話が成立しないことになります。他人によっては、「これ以上私と話したくないのか」と解釈するかもしれません。

 最も望むべきは、建前が本音の如き有り様なのでしょう。建前は決してその場を繕ったり、嘘でかためるといった類のことではありません。誠意をもって言葉を探し、ストーリーを創造するプロセスが本音にたどり着くこともあります。出来上がったカタチ(ストーリー)が書き手のココロを象(かたど)ることだってあります。その扉を押し開くための奮闘を忘れてはならないと思います。
 
※1 自分の立場を超えて出すぎたことをすること。

【4】「チョッカン」と「センニュウカン」~先入観や偏見の怖さ知る~

「『チョッカン』を漢字で書いてみて」と言うと、多くの人が「直感」と書きます。「チョッカン」は他に、「直観」や「直間」などがありますが、大抵「直感」となります。新明解国語辞典(三省堂)に「直感」は、「推理・経験によらず、感覚的に物事の真相をとらえること。」とあり、「直観」は、「判断・推理によらず、直覚的に物事の本質をとらえること。」と記されています。

 このように、「直感」と「直観」を辞典で調べてみてもどうも紛らわしい。人事がその対象者を見る場合や先生が生徒を見る場合など「直観」を大切にすべきではないか、という意見があります。それは、「物事の本質をとらえる」という側面とともに、「先入観をもたない」という一語を加えると分かり易くなるかもしれません。威信のある大学に在学している(していた)という先入観抜きで対象者を見る。服装や容姿、態度といった表面上の印象で他者を判断しない。ありべき、理想的な姿勢といえそうですが、なかなかそううまくいかないかもしれません。人は先入観に影響を受け、ついついその本質を見失うこともります。

 さて、企業の採用試験を受ける場合はどうでしょうか。ある企業を選び、企業研究を始めるとします。その企業はそれなりに伝統のある有名な出版社です。この企業を念頭におきながら、面接の際の質問を想定します。「どんな本が売れると思いますか」。「これからの出版業界にとって必要な戦略とは何ですか」…。さまざまな調査と思索と展開します。しかし、この企業の事業展開の核は介護事業にありました。相応の時間と労力を用い、そのための準備段階にありました。

 このような事例は枚挙にいとまがありません。ゲーム会社の中には、認知症予防にためのゲーム開発に本腰を入れているところもあります。社会の変化にそれぞれが対応しているといえそうです。現実に対する正しい認識をもつ、ということですが、英国の哲学者フランシス=ベーコン(1561~1626)は、正しい認識を妨げる偏見や先入観を「イドラ」とよび、その悪弊を説明しています。実在の正しい把握のために必要な知をどこに求めればよいのでしょうか。このことをいつも念頭におきながら、様々な経験をつみあげていった先に、その答が見つかるのかもしれません。

【5】情報と感情~良き伝え手は感情をもってすべし~

 人間にとって情報を発信する際に感情が大きな意味をもちます。小学生の頃のこんな光景を思い出します。子どもたちを前に、A先生が話します。明日の運動会の集合時間や持ち物について、きわめて事務的で淡々とした口調です。必要なことをよどみなく、静かな連絡事項の伝達がいつものように粛々と進行するのでした。大学生の授業でこれをやったら、全員、寝入ってしまうでしょう。一方、B先生はやや熱を帯びるほどの口調でした。「よかや、明日は暑かけど、最後は気合ばい。優勝するしかなか。今夜はしっか寝るように!」。常に、子どもたちを鼓舞するようなメッセージを発していました。B先生のクラスはまとまりが良く、リーダーがいて、それを支えるフォロワーが明確に存在していました。この先生、情報を発信する際に感情を付加することが大切さことを認識していたようです。それによって初めて、人は人の話に耳を傾けることを知っていたー。

 情報に感情を組み込むことを知っているヒトに対して、ヒトに近いとされるサルはどうでしょか。サルは情報に感情を付加することはないようです。サルは群れの仲間に危険を知らせる時に音声を使います。空からの迫り来る捕食動物、地上からその機会を窺う捕食動物、それぞれ音声に高低をつけます。発信された音声は記号化され、群れのサルたちによって情報として共有されます。その情報は群れのサルの危機を救うことにもなりますが、そこに感情が含まれることはありません。

 昨今、人間がサル化しているという言説を目にすることが多々ありますが、SNSのLINEなどを使っていると、サル化を実感することになります。苦しい胸のうちを切々と吐露し、仲間に窮状を少しでも理解してほしいという書き手に対して、悲しげに涙を流すパンダのスタンプ、ポーン…。正に、ヒトは記号によって己が思いを代弁しているのです。そんな記号化が一般的になりつつあるのでしょうか。使い勝手の良いスタンプは互いのコミュニケーションの傍流としてというよりも、むしろ本流として位置しているかのようです。

 お互い分り合っているというのは錯覚であり、双方の真の意思は伝わっていない、という深刻な経験を通してしか、新たな人間関係の構築は難しいのかもしれません。ただ、私たちの社会には良好な関係を阻害する多くの※1夾雑物(きょうざつぶつ)が存在し、感情を通した情報交換を妨げているという側面もあります。そのような状況を包摂した上で、“あるべき関係性の構築”が可能ではないか、と信じたいと思います。

※1 あるものの中にまじっている余計なもの。

【6】自己意識と他者意識~他者の眼を通して自分を語る~

自分はどのような特性をもっているか。この命題に対して、即座に答えることはなかなか難しいかもしれません。自分にとって、自分が最もわかり辛い存在、といえるでしょう。その解を求めるとすれば、他者を意識することによって、他者との関わりの中で見つけるしかないのかも。自分という存在は、他者の意識の中で生まれるものであって、自己(自分)の意識の中で認識されるもの、ではないのでしょう。

本来、他者は自分のことをよく知っていてくれるはずでした。特に、親友などという立場であれば、時には厳しい指摘や忠告を親身に投げ掛けてくれる、最高の理解者であったはずです。ただ、昨今はそんな身近な“大切な関係の友人”がその人にとっての“よるべ”(頼みとして身を寄せる人あるいは場所)としての機能を失いつつある、といいます。ふと漏らした大切な言葉がネットを通して拡散してしまい、互いの関係が台無しになってしまった、というような例も決して珍しくはないようです。心から許し合えることができない、おっかなびっくりの人間関係といえなくもないようです。

自分という存在が、互いの信頼の中で育まれ、認識されるものであるとすれば、自分を理解することが難しい時代といえるかもしれません。そんな時代に「自己理解」や「自己分析」を求められると、なかなか厄介です。分かり難い自分を理解する上で厄介な傾向といえるのが「抽象の習慣化」とよばれる現象です。忍耐力、集中力、責任感、はたまた総合力など便利ではあるけれど曖昧さを助長する表現が“横行”している現状があります。「あなたの性格について述べなさい」という問いに対して、以下のような文章がかえってきます。

私は小学校の頃から高等学校まで野球をやっていました。毎日の練習で自分を鍛えることによって、高校生の時には強豪校でポジションを獲得しました。私は、これによって忍耐力と責任感、さらに、チームワークを身につけることができました。これからも負けず嫌いの性格で何事にも挑戦していきたいと思います。

忍耐力、何とも使い勝手のいい言葉です。ここでいう忍耐力とは精神的な側面を述べているのでしょうか、それとも体力的な側面のことでしょうか。いろいろな解釈が可能な表現です。その意味では、「抽象的」な言い回しといえそうです。できれば、「抽象的」な表現は避けたいところです。以下に具体的な例を説明します。

私は小学校の頃から高等学校までの野球経験を通して、「師」の有難さを学びました。高等学校の監督は、厳しさと優しさを併せもち、選手を意見を聴き、それをしっかりと受けとめてくれました。監督選手相互の信頼関係が良好で、野球をはなれても強固な関係が続いていくと思います。私も常に人の意見に真摯に耳を傾け、人から慕われるよう、監督のような人物を目指したいと思っています。

抽象的な表現を使わず、他者との関係の中で学んだことを説明する。「師」の有無はその人の人生に大きな影響をもちます。そのことを実体験で有していることは、アピールポイントにもなるでしょう。具体的でわかり易いとはどのような表現か、常に吟味しましょう。

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