約束

「ぜったい、いい先生になってください」。

Yさんは、クラスの代表として皆の視線を集め、小さな花束をもち、私の前に立ち、ペコっと頭を下げた後に言いました。キラキラした瞳にうっすら涙を浮かべ。

ぼくは、彼女の純な空気に思わず後ずさりしてしまいました。まるで、劇画の中の世界。ただただ、その時のぼくは戸惑っていました。あんなに貴い別れの日、最後の時、後にも先にも、なかった。今も、心から、ありがとう、と言いたくなる決して消えることのない記憶です。

大学を卒業して2年。教育学部を卒業したくせに、教員免許ももっていない。教員になること、考えてみたら、と周囲からかまびすしく言われて。取得に必要な要件として、当然、「教育実習」がありました。

何も今更。学生時代、周囲の友人たちは、嬉々として「実習」の感動を私に伝えました。単調で辛い試験勉強を乗り切るための糧としたかったのでしょうか。にこやかに聞いてはいましたが、いつも違和感がありました。教育って、そんなにわかりやすく、すっきりとした、仕事ですか?「感動した」という言葉で片付けられる営為ですか?

遅い「実習」で初めて生徒と対した時、ぼくはこんな自己紹介をしました。

「ぼくは、あまのじゃくで、とてもいい加減な人間です。自信があることといえば、何でも美味しく食べられることと、人を嫌いにならないことです」。

怪訝な表情の生徒に対して、続けて言いました。

「何でも美味しく食べる、というのは、周囲の人がそのように見てくれることが大事。おまえ、本当に美味しそうに食べるな、と言われたら、ぼくは本望です」。「人を嫌いにならないためには、百%のうち1%でもいいところがあれば、その1%をぼくは見る。だから、嫌いな人はいません」。

ちょっとわかりにくい自己紹介をしてしまったかな、という思いを抱きながら、「実習」は始まりました。ただ、ぼくが気にしているほど、生徒たちの意識がそこにあるはずもないか…。

ちょうど実習も半分を過ぎたころ、美術館へ研修旅行がありました。

多摩から鎌倉へのバスは、喧騒そのもの。その渦中、ぼんやり、外を眺めていたら、空いていた私の横の席にYさんが座りました。

「先生、質問があります」。正面から切り込むように言いました。

優秀な成績で、クラス委員でもある彼女、物言いもかなり迫力のあるリーダーです。

「先生の自己紹介、もう少し詳しく話してください」。「もう少し?」。どうやら、そんな結果(考え方)になった理由を聞きたい、ということらしいのです。「困った」。この理由を話すということは、私のプライベートをありていに白状しなければなりません。

ぼくは、彼女に気圧されて、その理由を語り始めたのでした。ぼくの父親が私と母を捨て、新しいオンナをつくり、家を出て行ってしまい、それがもとで母親が病気になってしまったこと。その母親が病気をおして、半年ぶりに台所に立ち、作ってくれた味噌汁の味が忘れられないこと。それはぼくにとって、食の原点であり、食が感謝の対象であることを説明しました。また、そんな目に遭わせた父親のことを恨まないようにしよう、良い思い出だけをしまっておこうー。弱いはずの母がはっきりと私に告げた言葉は、私の胸にいつまでも刻まれているよ、と告げると、横で聞いていた彼女の瞳から、幾筋もの涙が流れていました。彼女の境遇とぼくのそれを重ね合わせているようでした。ただ、彼女は父親を恨んでいる。どうしようもない現実と戦うこと、中学生では難しい。現実を前向きに受け入れるしかないよね。

「わかりました。私も先生のように生きていきます」。

Yさんのあの時の笑顔をぼくは決して忘れることはできません。彼女はぼくとの約束をまもってくれている、

きっと。ぼくは、守っている、と言えるだろうか。

安部博文

安部博文株式会社エンシュー 代表取締役

投稿者の過去記事

熊本市出身。法政大学政策科学研究科修了。短大、大学、専門学校、予備校の講師として教壇に立つ傍ら、公務員試験本や大学生の一般教養書籍を執筆しています。

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