教師を責めて、始まるか?

~親として、できること~
 
親が教師を見る眼は厳しい。一挙手一投足、しかと見つめています。

それでは、いわゆる良い先生とは、どのような先生なのでしょうか。

大村はまさんというたいへん有名な国語の先達がいらっしゃいます。
この方の著書に『教えるということ』という本があります。その本の一節から。

ある日、仏様が道ばたに立っていると、ぬかるんだ道で荷物をいっぱい積んだ車が立ち往生していました。男が一生懸命引くけれども、全く動じない。仏様はしばらくその様子を見ていましたが、その姿にいたたまれなく思われたのか、さりげなく、指でふぅーっとその車を押しました。その男にはそれとわからないくらいにやさしく…。男は、動き出した車を喜び勇んで引っ張っていったそうです。

教えることの理想ともいうべき説話ではないでしょうか。今の教育は個性を重視するあまり、教えることから一歩も二歩も退いている、という指摘があります。

確かに、注入主義では子どもから個性や自主性を奪うことになるかもしれません。しかし、先生が教えない、という現状が本来の姿とも思えません。

学校、先生。親の要求は多様であり、それに対応するためのエネルギーたるや、想像をはるかに超えるものだと思います。一方で、その教員になる人材が、競争率という視点で見た場合、やや劣化してきたといえるかもしれません(埼玉県の小学校の場合、二〇一一年度に3倍を切りました)。また、二〇一二年度採用試験から新規採用で論作文が課されなくなりました(試験の負荷を軽減)。

教育の現場が、まさにジレンマを抱えている様相を呈しています。それでは、と考えます。

少し厳しい見方をすれば、学校に過大な期待をかけるべきではない、と思います。

親として何ができるか、を考えた方が良さそうです。

さまざまな人の意見に対して謙虚に耳を傾ける。親のそんな姿勢を子どもに伝えること、出来そうに思います。

安部博文

安部博文株式会社エンシュー 代表取締役

投稿者の過去記事

熊本市出身。法政大学政策科学研究科修了。短大、大学、専門学校、予備校の講師として教壇に立つ傍ら、公務員試験本や大学生の一般教養書籍を執筆しています。

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