ソファーに横たわり、「疲れた」と一言だけ奥様に告げて、あまりにもあっさりと、己の人生の幕を降ろしましたね。
「タテオさんと呼んでくれ」と仰いましたが、やはり「師匠」と呼ぶべきでしょう。
「人は、その人が望む場所で生まれ、そして死ぬ時だって望んだ通りになるもんだ」、
「ボクは桜の頃に、だれの厄介にもならず、ポックリとイクから」。
その言葉には、断固とした決意がにじんでいました。その際、鎌倉時代の吟遊詩人、西行が必ず登場しました。
そして、まるで彼を慕うかのように死をなぞった師匠。その死もその生き様も私の脳裡から離れることはありません。
三十歳。そんな年齢差は感じなかった。いつも、同じ土俵に立ってくれていた。ただ、立場は同じ教員でも、キャリアは雲泥の差。教えて頂くこと、多々ありました。
その教示、場はいつも居酒屋でした。数多、ご一緒させていただきました。
「ボクは飲み代で一軒家が建つ」とおっしゃいましたね。いや、二軒分かもしれません。全くごもっともです。
だって、いつも師匠がおごってくれるのですから。
それは、何人で行っても、同様でした。
「今日は私が払います」「十年早いよ」。誰が上訴しても、なしの礫(つぶて)でした。
あしかけ十二年、タカリになってしまった私ですが、酒の席のタブーをお互いによく破りましたね。政治、哲学、宗教…。よくぶつかりました。左と右の論争。今は有り難く、胸中の熱情の軌跡として大切にしまってあります。
「世が世なら幕閣の家の出だから」。誇らしげな表情、東大の国文科卒を鼻にかける仕草。周囲が引いてしまいそうな時も、何だか許される。それも毛並みの良さ、ということでしょうか。
権力を目のカタキにしつつ、どうやら、そこに身をおいてしまっていた師匠、私は好きでした。
桜の頃、大好きな日本酒に花びらを浮かべ、師匠の記憶を辿ります。
あなたの説教や講釈の一つ一つを宝箱から取り出します。
あの時代に共に生きたことに感謝しながら…。