何かと真剣に向き合ったり、人生の節目にある人は、相談にのってくれる人が欲しいもの。
仏典にこんな教えがあります。「心の師となるも、心を師とすることなかれ」。
心から信頼できる師との出会いがあったとしても、我が心を師としてはいけない、ということでしょう。
さて、相談事です。
「今悩んでいることは何ですか?」、「何かわからないことはありませんか?」と問いかけます。
そんな問いに相談事が出てこない。心の内にある棘(とげ)をこちらに吐露できない。
そもそも、そんな習性を持ち合わせていないようにも見えます。
ぶつかり合うような関係を避ける。関係性が濃いほど、素顔の自分は見せない。
そんな関係性を大切に(あるいは、習性として)固持しているかのようにも見える若者たち。そんな彼らは、まるで予定調和が常に念頭にあるように、良好な人間関係を構築してきた、と書きます(あるいは、口頭で述べます)。
中学生から大学生まで、至極うまくやってきた、というのです。
人間同士、私など、今でもいたるところでコンフリクト(意見や感情の衝突)を起こしています。私が子ども、ということもありますが…。
ぶつかりあいの中で何かを学ぶ。生きていく上で反抗や対立がつきものです。何も、誰かとけんかをした、というようなものではなく、自分の思いと噛み合わない何かを解決するために、他者と議論する。容易ではない人生をどう生きるか、反抗の中でその答えを探し出す。反抗の先には、社会への順応(あるいは適応)があるのかもしれません。そのまま、反抗のままの行き方だってあるでしょう。
人に話しを聞いてもらう、相談に乗ってもらう。
このことにとって、積極的に人の話を聞く、ということも大切でしょう。
聞かなければ、聞いてくれない。それが当たり前のことだとすれば、いくつのなっても、相談することはとても大切なことになるでしょう。