「ネガティブ」には、自分の否を見つめる前に、他者を槍玉に挙げる場合。また、自らの至らなさゆえに、あるいはそれ以上に自己否定をしてしまう場合。前者が他虐的で、後者が自虐的というわけですが、その双方が、「ネガティブ」という言葉で包含できそうです。
私の周囲には、「就活」に失敗した若者が少なくありません。幸か不幸か、あと一年「就活」に取り組むことになりますが、Tさん(女子学生)もその一人。どうやら、さあこれから、という時に「余分な一年」、という感覚が頭をもたげるようです。この時点から、「ネガティブ」な部分を解消したいところですが。
前年の轍を踏まない。蹉跌(さてつ=)を糧とする。そこから何か学びを得ることも決してできないことではない、と思うことが肝要のようです。いづれにしても、その方が本人にとってプラスになる。何に手をつけるよりも、先ず、そんな気持ちの整理こそ、求められるのかもしれません。
そんな彼女が就活を振り返ります。
「すごく、企業側の注文が多かった」。
「メーカーを受けた時、文系なのに理系の知識を求められた」。
「研修はやらない、と言われた。どうやって仕事を覚えるの、と思った」。
「総合職はいや。たいへんそうだから一般職にしようと思った」。
彼女の話を聞いていると、とても他虐的です。
そんな厳しい眼で企業を見てしまうと、働くことが辛いことになるのではないか。
お父さんも嫌い、とはっきりと言い切ってしまいました。
自己を責めたり、他者を責めたり、人はバランスを取りながら、というのが一般的な処世術ということになりますか。そのバランスをどうやら欠いている。中庸の発想が必要な若者、決して少なくはないのです。
ほんの少しでもプラスの面があったら、褒めてあげていいと思うのですが。
それは、自己に対しても、他者に対しても。フランスの哲学者アランは、『幸福論』の中で、「悲観主義は気分のものであり、楽観主義は意志のものである」と述べています。
強い意思をもって、他者と楽観的に向き合う。そのことが「幸福」へとつながること、ひとつの哲理といえないでしょうか。